文京うまれ

自由と知性

「教育」と称するものの裏で

教育をしていて思うのは、

 

「俺は教育をしているのか、あるいは選別をしているだけなのか」という問いである。

 

いろいろな教育方法が百花繚乱である。自分が教えた子たちも非常に優秀で活躍している。

が、そもそも優秀でない子たちが自分に懐くだろうか、という問いもある。

自分が育てた子が優秀というのではなくて、近寄りがたい雰囲気のある自分に教育を受けようと思う時点で選別が起きているのではないか。

 

もう一つ重要な点は、手をかけて教育すれば一人をなんとか一人前にすることは可能だが、その裏で不公平に泣く子がいるほど、教育者のリソースがそもそも不足するのが人間社会だ、という事実だ。

 

竹原慎二の人生相談に考えさせられるのは、「お前、腐っても犯罪侵すんじゃないぞ」と最初に釘をうつところだ。教育の最低ラインは他人の人権を侵害する事を防止する事であるよなあ、決してその子の生きたい道をサポートする事ではないよなと我に返るのである。

 

ただ、選別だと割り切るとまた見方は変わる。

「良いところを育てる」的な議論こそが選別なのだけれども、なるほど良い言い方をするよな、と思う。まあそれは良いとして、苦手だけれどクリアしてくれないと社会生活には不具合が出てくるぞ、というような部分をなんとかするのが一番難しいわけで、良いところを育てるなんてそんな低レベルの事を「すごいすごい」言ってるっていったいなんなの?と思うわけだ。

 

脊髄に禁忌の造影剤を注射した医師が5年目なのに後期研修医だというような事が書かれていた。それが本当ならば、研修を途中で落第しているという事だ。この子は最初から命を扱う職業には向いていなかった。ミスの芽を詰めなかった教育者は一生悔いつづけるんじゃないか。