文京うまれ

自由と知性

生きている事

癌の再発転移を繰り返している患者が来て、正直もう死んでいておかしくないと思っていたから意外とお元気そうでこちらも嬉しかった。医学は日進月歩。

その方がメモを見ながら話をするのだが、その病歴が癌に関しては完璧で、「メモを貸してくれます?」とお願いしてカルテに入力すると非常にすっきりと整理された。

彼女が抱えていたいくつかの問題は解決可能なように見え、それを伝えると笑顔でお帰りになったが、その和やかさは死を覚悟していない人々との会話と対極にあるものだ。

 

「死を覚悟していない人々」が多いことは当然とはいえ、75歳を超えてまだその状況だと困ってしまう。メモもせずに来院し、記憶がくるくる変わり訴える症状に一貫性がないから当然問題を絞りきれぬ。概念として存在している病気の診断は簡単なので、問題を絞りきれないときにはそれはなんでもないことが多いのだが、その原因を自分で作り、さらに自分が不安になるというデススパイラルに陥るのである。外来は辛気臭い。簡単に診断したらしたでそれが悲劇のヒロインになれない病気だと患者は嫌がる。やはり辛気臭い。

 

生とは何か、と問われると、死を意識していることなのだろう、と思わざるを得ない。そういう対比が外来にはある。良き老後を送りたいという団塊の世代に「死を意識せよ」と教育して10年経つが、真意を理解してもらえているかどうかはまだわからない。