文京うまれ

自由と知性

ソーシャルディスタンスの誕生

パンデミックにおいては、学校を閉鎖することがもっとも重要な戦略であり、そうした感染の機会を減らすソーシャルディスタンスの考えは2007年に非医薬品介入(NPI)としてブッシュ政権で誕生した。そういう歴史の話です。

学校を閉鎖することで、広がる感染症をある程度コントロールが可能というのは、思考実験上、あるいはインフルエンザの免疫については比較的普及した考えだと思うけれど、実際のCOVID-19パンデミックが起きてみると、すぐさまそれを実行したのが中国、韓国、日本であった、というのは興味深いところです。

(日本などは2月中、欧米は3月中旬までずれこんでしまった)こうした、日本で言うクラスター戦略が、サンディアの数理解析の研究者の娘さんが高校の研究で提案したというのは非常に感銘を受けました。


2005年に鳥インフルエンザ(H5N1)がヒトーヒトに感染し、あわや、という事件がありましたが、それはCDCの活躍によって、未然に防がれました。幸運なことでしたが、本物が来たときにどうするかを考えると有効な手がなかなかない。2006年に考案されたこの戦略が一筋の光明であった、というわけです。

2009年に流行した新型インフルエンザ(H1N1)ではしかし、たまたまグラクソが作ったワクチンが効いてしまい、早期に事態が収拾。ソーシャルディスタンス戦略の活躍は限定的で目に触れる機会はなかったでしょう。

今回はじめて市民たちはソーシャルディスタンスとはなにか、を実際に体験していることになります。


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日本で学校の閉鎖を決定したのは、自分たちが責任を取りたくなかった専門家連によれば「安倍晋三首相の鶴の一声」とされました。自分と、仲の良い公衆衛生に強い友人は、子供が伝染病では媒介者になるという事を知っていましたから、「もしかしたら首相のウルトラCだわこれは」と話し合っていました。

米国のNPIを知っていたら日本の専門家たちはこの功績を安倍晋三首相には譲らなかったのではないかと思うから、あまり認識はなかったのかもしれません。また、ドイツのように最悪の事態のシミュレーションもしていなかったかもしれません。少なくとも日本にはロックダウンの法整備がなされていません。法整備に関してはドイツは先進国だと留学していった若い友人を知っています。

ただ、北大の天才西浦教授が「クラスターをつぶせばいけるんじゃね?」というシミュレーションを出し、それにGoサインが出て、3密というキャッチーな言葉が生まれ、結果としてはソーシャルディスタンス戦略の王道を歩いて、日本はなんとかここまで生きながらえています。

違う歴史の軸で同じ考え方が出てくるというのは時々目にしますが、このエピソードも大変興味深かったです。

 

自省と慢心

自分は今朝、英文の医療エッセイを読んでいた。(もちろんGoogle翻訳でだ)大抵は知らない先生によるもので(優秀で有名なんだろうけど)でも自分の目に入るのだからそれなりに大勢が読むんだろう。

英文で書かれたそういう医療エッセイは、日本語で書かれたものと少し雰囲気が異なるものが多く見られる印象だ。大上段に構えず、ハッピーエンドでもなく、自分を良くも見せず、恥ずかしさや悔やみが存在して著者は偉そうなことは書かない。ただ、決して自虐ではなく優秀なのでその時の世相を鋭く切っている。

ファイナンスの問題。命に値段はないというのは嘘だという現実は医師の判断を難しくしているとか、障害・差別など人間の多様性の問題、最新の医療に関する話題、医療ギャップ。

そして決して過去の偉人の言葉を理想化はしていない。変わろうとする気持ちがある。

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日本にはワクチンなど多くの医療問題があるが、自分は正しいと思う人同士が攻撃しあうのみで違和感がある。
これをFacebookなどで書けない時点で自分には声高に言う勇気がないという証左であって、恥ずかしいことだ。

「私の癌にはこの薬しかなく、この薬が効かなかったらもう方法はない、そう言われたのです」

「私の癌にはこの薬しかなく、この薬が効かなかったらもう方法はない、そう言われたのです」
「なるほど、あなたの気持ちはわかります。一方で医者の気持ちもわかるかもしれない」
「私はそれを聞いて、なにかとてもがっかりしてしまい落ち込んでいます」
「確かに自分もがっかりするかもしれません。ちょっと調べさせてくださいね、パンフレットお持ちですか?あ、これですね。了解です」

すると切除不能なその癌の治療薬は確かにそれしか認可されていない。
にしても、割と最近の薬なので、その前はその癌の治療法はなかった、という事になるのですね。となれば、患者さんとお医者さんにはだいぶ温度差があるかもしれない。

「お医者さんとしては、最近まで治療法がなかったのが、今は手段があるということをあなたに伝えたいわけですから、非常にポジティブであろうと推察します。そしてこれが効かなければ他には方法はない、という伝え方は私には孫氏の兵法である「背水の陣」かしら?という印象です。背水の陣っていうのは、自分の兵隊を追い込むことで彼らの実力を100%以上発揮させる手段であると理解しています。この治療しかないよ、とあなたを追い込むというと語弊があるけれども、あなたにあなたの実力の100%以上を発揮してもらうための一言だったのではないかしら?と勝手に想像します。あなたは最近その薬が使われだしたということはご存知ないし、これ一つしかないのかしら、とがっかりするかもしれないのだけれども、そういうニュアンスではないのですよ、ということを理解して欲しいんです。わかりますか??」

実際にはもうちょっとグダグダ話していただけれど、それで患者さんの気持ちは切り替わったらしくて、化学療法になるとこんどは腫瘍内科っていう科の先生がやってくださるとか、その先生を調べたらきちんとした専門家らしいので私は安心だとかそういうことを話してくれました。

「これが効かなかったら、もうほかにはない」という説明の仕方は過去にも聞いたことがあって、その時はその時で別の説明をしたかもしれませんが、主治医の先生がそういう言葉を選んだという理由がわからなかった。でも孫子をちょっと読みました。背水の陣ていうのは仕方なくそうなっちゃったんじゃなくて、最初からそういう作戦なんだとわかりまして、なるほどこの言い方は「破釜沈船の計」の故事と似てるじゃんねー、ということを今回は患者さんに話しました。自分にとっても主治医の気持ちの一つの解釈ができたので良かった。

患者さんが途中で自分の「あなたが前向きになることによって、免疫力は大きく変わります」という言葉に大きく反応したんですけど、この一言は自分にとってはおまけみたいな一言でしたけれども患者さんにとっては大切だったんでしょう。免疫力というバズワードは自分は好きではないのですが、患者さんに力を与えるためなら手段はなんでも良いか、と自分を納得させました。

見えている未来

主に英語の文献を読むようにしている理由は、なるべく未来を俯瞰的に見ましょうという姿勢の研究者が多いからかもしれない。

 

例えば総合医というような概念があって、欧州とか米国にはそれっぽい役割の医者がいるけれど、日本の場合はなんちゃってだから、少し温度差があって、日本だと「総合医」という名のマニアの集団になってしまうことに違和感を感じている。

 

いやいやいや、必要最低限の線を決めることが大切なのよ、本当は。

 

最近読んだ文献で、家庭医はこれをやっとけみたいな概念をヨーロッパの学会が書いていていちいち頷きながら読んだんだけども以下に列挙しておきます。

①家庭医はコミュニケーションが取れなくちゃだめで、その最適なトレーニング方法を欧州では探しているみたい。今の所一番良さそうなのは即時型フィードバックで、外来やってるそばからダメ出しが入る形式。患者の事を考えてもそれが一番良さげ。

②患者のインテリジェンスが治療効果のかなりを占めてしまうわけで、それをきちんと把握できるような問診システムを作ったらかなりいけてる。これは自分もやっててニヤリとした。

③同様だけど、患者がちゃんと説明したことを覚えたかどうか、医者が説明すべきを説明したかどうか、そういうのはコンピューター使ってフォローアップできるし、やったほうが良い。

④複雑な病態の把握をするのには今までの統計学的手法は再現性が低くて、マルコフモデルなど別の方法が良さげ。むしろ医者がやってる因果関係のうんたらかんたら的なものはもはや占いと同じレベルで、すべて偶発的なものだぐらいに解釈したほうがまし、今の所は。うんうん。

⑤いろんな指標で患者の評価をするけどQoLについてはまともな評価方法がないんじゃないの?とはいえ、いろんな評価方法を取り入れてデータ化しておくほうが良いし、いろんなデータから患者の入院予測ができたり実際にするんだから、コンピューターに任せてしまおうよ。

⑥めちゃくちゃ地域差があるので、一つのエビデンスやモデルを他の母集団に当てはめるっていう時代でもなくない??

 

とまあ、こんな感じで、自分が問題だと感じていること、つまりコミュニケーションについてばらつきが大きすぎる事、因果関係を決めつける医者が多すぎること、データベースを活用してる医師が少ないこと、いろんな「俺の指標」を作りすぎてること、などはやはり問題だと思われてるみたいで、コンピューターが全部を解決してくれそうなので、あとは放っておけば良いのかな、的な。

数は力

橋本病(Hashimoto's disease)は自己免疫機序により生じる慢性甲状腺炎の事で、日本人医師の名前が命名されている数少ない病気の一つ*1だ。

私は診察時に甲状腺は必ず診るので診断が遅れたことはない*2が、疲れ、体重の増加、寒さ、関節痛および筋肉痛、便秘、毛の乾燥、薄毛、月経あるいは妊娠の問題、抑うつ傾向、記銘力低下、徐脈などの症状があるのに気づかれずにいるケースがある。

この橋本病は他の自己免疫疾患とオーバーラップすることがあり、アジソン病、自己免疫性肝炎、セリアック病、SLE、悪性貧血 、慢性関節リウマチ 、シェーグレン症候群 、1型糖尿病尋常性白斑などは診断の際に念頭におく。

つまり、橋本病と診断されたまでは良いが、チラーヂンS*3を使った甲状腺ホルモンの是正だけでは終わらない事があるという事であり、先日は悪性貧血との合併を専門医で放置されていた症例があった。(そういう事は珍しくはない)

患者としては記銘力低下も、疲れも全くとれないので何年も困っていたらしいのだが、医師からは「ホルモンは正常だ」と言われるばかりだったそうで、ビタミンB12の注射で症状は速やかに取れたのであるけれど、やりきれない気持ちが残った。

(ちなみに悪性貧血は消化器内科でスルーされていた)

さて、自己免疫疾患のオーバーラップが否定されている場合でも、甲状腺ホルモン是正をしてもなお症状が残る人々がいる。抗甲状腺ペルオキシダーゼ抗体や、抗サイログロブリン抗体が極めて高い人々がいて、それらの自己抗体が他の部位を攻撃したり、あるいは炎症が強いことで消耗が起きたりするのであろう。その場合には甲状腺切除をすると症状が改善する、という論文があった。

annals.org
自分がこの患者の病態がおかしいと気づいたきっかけは、人間ドックの結果でγグロブリン分画が少しずつ上昇している事に違和感を持った事であり、炎症がまだ落ち着いていないのではないかとしつこく聞かなければ、「まだ症状が取れていなくて悩んでいる」とは打ち明けなかった。MCVはちなみにほぼ正常であったけれど、それは鉄欠乏も同時に起きている場合にはよくある罠である。

 

 

 

 

いつも患者に「困っていることはすべて言ってくれ」と頼んでいるが、それでも我慢している人はまだまだ多い。言ってさえくれれば、それは簡単に解決する場合があるかもしれないのに。

*1:それ以外には川崎病や原田病、菊池病などがある

*2:むしろ無症状の橋本病をたくさん見つける

*3:レボチロキシンナトリウム水和物

歴史家と歴史学者

トゥキディデスの罠*1」という言葉を世の中に思い出させたのはバラク・オバマ大統領だという事で、さすがリベラルアーツ教育をしっかり受けた人という感想。
自分が知ったのはごく最近で、新聞にこの言葉が煩雑に登場するからです。

 

ここで思考を飛ばして「歴史家」とはなんだ、という事を考えることにします。
歴史家として有名なのはトゥキディデスと同時代のヘロドトスで著書は「ヒストリア」が有名、てうかそもそもヒストリーという言葉を最初に使ったのが彼。

 

基本的に世界観が中立に近くないと歴史家としては称賛されないわけですから、つまりすぐれた歴史家が登場するには、その社会の成熟を待たないとならない。(でないとその歴史家は殺されるか、別の方法で歴史から抹殺されるから:著名な歴史家、が登場する年代、地域を見るとなんとなくわかる)


という点で20世紀以後の社会は恵まれているのかなと思います。私の本棚にもマクニールの世界史と、ウンベルト・エーコの世界文明講義は読まれないまま飾られています。素晴らしい装丁です。

 

トゥキディデスの罠」に嵌る事例も20世紀以後は極端に減っています。(日本と米国の戦争は残念ながらまだ成熟には達していない中で回避ができなかった事例)しかし常にその罠を歪んだ形でメディアを通じて目にする我々は良くない影響を受ける場合もありますね。ヘイト。それは何も生み出さない行為ではないか。

 

一方で歴史家の視点に立つことは利益に適う。最近では「歴史家」に相当する才能を持った人が大成功している例が見られます。
ケヴィン・ファイギです。彼は百科事典並みの知識が米国中のアメコミオタクに信頼されており、マーベル・スタジオを大成功に導きました。

 

学問でも同様の才能が教育を成功に導くとは思いますが、その点がややこの国の弱さか、という印象は持っています。

 

 

*1:トゥキディデスの罠
覇権国家新興国家が戦争不可避な緊張状態に陥る様。20世紀以後は戦争状態に陥らない事例もあるが、過去の事例ではほとんどが衝突に至る。経済戦争や国境紛争などで互いの武器をちらつかせる昨今の不安をオバマ以来使用するマスコミが増加している。

ギャップ

急性の病気はかなり専門性がものを言います。
例えば自分は胃腸に関して強いですから、他の医者がビビるような状態であっても平気で診る。患者さんがこうなったら死んでしまう、ここまではOKのラインがわかっているから。

つまり急性の病気を救えるかどうか、が「専門」の本質だろうと思っています。

例えば精神科だったら急性期の患者を救えるか。
甲状腺だったらクリーゼを救えるか。
耳鼻科なら窒息から患者を救えるか。
眼科なら失明しそうな状態から救えるのか。
急性白血病に直ちに治療を行えるのか。
カテーテルで患者が救えるのか。

それ以外ののほほんとした状態だったらぶっちゃけ専門は関係なくて、医者の地頭がすべてだと自分は思います。