文京うまれ

自由と知性

トレーニングを受けていない患者の群は何を意味するのか

日本の医療は何しろ時間がなくて余裕がないわけだから、

きちんとシステム化されているべきであった。

ところが間違って進化しているものだから、

こっちはやりにくくってしょうがない。

 

 

脱ぐ準備をしていない。

話す準備をしていない。

 

 

時間に余裕があれば、「さあ、脱ぎましょう。え?そんなに着ているの?」「お話は生まれてから今までの事をするのが内科では普通だし、頭のてっぺんから足のさきまでの症状について全部教えて下さいよ。」と言えるわけだけれど、時間がないから。

 

 

本来は脱ぎやすい服とか、今までの記録を書いて持ち歩くとか、そういう進化を遂げるべきなのに、実際にはまるで違う。

 

 

あまりにカジュアルな受診が普通になって、患者のインタビューをしない、診察をしないのが普通になってしまったのだろう。だからそれを取り繕うために「主治医制」などと言い出すのだろう。ミスが顕在化しにくい方向へ進化するのだ。

 

 

そして「ザ・誤診」はこのカジュアルな受診態度の延長線上に存在する。

カジュアルな受診を何十回しようが、それは丁寧な診察1回に及ばない。

 

 

時々、精神科に通院している人が長い長い病歴を申し訳なさそうに懐から取り出すけれど、迷惑どころか自分にはそれでも足りなくて、小学校のころの発達はどうだったかとか、親との関係はどうだったかとか、聞き出すと切りがないけれど、それでもかかる時間と密度は全部聞きだすのの3分の1で足りるので全然嫌じゃない。

 

 

例えば自分が悔しい思いをした一例では、3年前に誤診をされているわけだけれど、それを患者が忘れていて、お薬手帳にもその痕跡が見られず発見できなかった。あとで「これは検査結果とつじつまが合わない、なんかないか、思い出してくれ」と言い出してやっと患者が「3年前にこういう診断をされたが原因がわからなかった」と思い出して診断がつく、と言ったような事が起きる。

 

 

患者さんには、「嫌がる医者がいたとすると申し訳ないけれど、これからも受診をするたびに出してくれると喜ぶ医者もおります」と話しかけている。