文京うまれ

自由と知性

手詰まり感

病気ってのは緊急に処置しなくちゃいけないときと、

予防的に処置する場合とがあり、

 

生存率が高い予防的処置が選択される傾向にあるが、

(ステントなどがそう)

 

今日、難病患者さんで、その予防措置をするかどうかみたいな案件があって、

残念ながら経験ないので検索かけたところが、

いきなり訴訟案件がヒットして、

(病態としては処置で亡くなる可能性は考えられたが、一方予防しておかない限りは発病した時に亡くなる。要するにどっちを取るかという選択を迫られる。そしてたいていはどちらのケースでも訴える人がいる。それは危険性を十分に知らせなかった、という理由でだけれども、いくら同意文章が残っていても「そんな理解はしていなかった」という遺族感情を鑑みて判決が下る傾向が日本にはある)

「うわ、やはり」という気持ちと、

「でもこの訴訟でチャンスを潰した難病患者さんもたくさんいるな」という気持ちが交錯して、なんとも暗い気持ちになってしまった。

 

こういう案件では、この患者に深くコミットする主治医がいるのかどうか、というのがかなり大きな因子になる。「俺にまかせろ、全部病態は理解している」と心理的な絆を作ってくれる医師がいるとね、患者も家族も各専門医も幸せになれるんだけど。ないものねだりにはなるが、そういうのがほんとのスーパードクターだと思うよ。