文京うまれ

自由と知性

患者と医者は釣り合ってしまう

自分のところには元クレーマーという人が沢山いて、

偽の信頼を自分に寄せて通っている。

今のところミスが起きていないというだけの、仮の信頼関係。

 

こういう人々が寄ってくるということはまだ真の名医とは言えないのか、と悲しく思う。頭が切れるx思いやり=無制限に人が寄ってくる。

 

ただ、おかげでクレーマーの人々の頭の中身は相当理解できるようになった。

 

例:なんでも一般化する。アウトプットが少ない。

「先生、自分のことじゃありませんが高脂血症は治療したほうが良いですか?」

「はあ?患者さんが自分で考えるべき案件」

「いや、だってしたほうが良いんでしょ」

「て結論なら聞く必要ないでしょう」

「…」

「あ?もしかして特定の個人の問題を聞いている?ならばその人は誰か」

「娘です」

「娘って誰」

「先生にもかかっていて」

「それを言うべき。あなたはなんでも物事を一般化して質問しますが、ならば医者は一般的な答えしか出来るわけがない。その結果あなたがその医者を親身じゃないと思ったとしても、それはあなたの話し方が悪いわけ。一般化というのは情報提供の出し惜しみにしか過ぎないわけだ。そうやって省力化しようとする人にどうして親身にならなければいけない?あなたが病院で何も満足できないのだとしたら、まずは自分が十分な情報を相手に提供しているかどうかを考えたらどうだろう」

 

例:疑ってもしょうがないことを疑う

「先生、こんな腫瘍、触ればわからないんでしょうか」

「わからないね」

「先生、かばってませんか?」

「いや、論理的に考えてご覧。腹部の断面を考えた時、背骨の前面以外ではその厚さは10cm近くある。その中で自由に動く腫瘍がある場合に、6cmを超えないと触知は不可能だってことは、固定されていても腎臓の触知が難しい事からしても理解が出来るんじゃなかろうか。あなたは僕の事も信用しない?」

「信用します。先生ならわかったんじゃないですか?」

「無理だと思うよ。そりゃたまに神様が微笑んでくれるかもしれないけれど、それは患者さんの運で自分のおかげじゃない」

「そんなことばっかり考えます」

「うーん、間違ってる。疑っても時計の針が戻せるわけじゃないでしょ。でも今聞いたら正しい治療が行われているよね。それをどうして悪い方に悪い方に考えるわけ?」

「先生に診て欲しいんですけど」

「理由つけてかかろうとする人って嫌なんだよね。病気は免罪符じゃないでしょ。困ってる人がいたら診る。それだけ。今困ってる?」

「いえ」

「だよね。だって今正しい治療が行われてるもん。困ったらおいで、それじゃいかんの?」

「でも先生が…」