文京うまれ

自由と知性

差別と無知(イノセント)

時々自分の事が恥ずかしくなるのは、自分が無知でイノセントであったなあと実感するからだ。

 

例えばLGBTについて何も意識しないのはそれについて差別をしようとかいう人がいない環境で育ったからであって、それは自分の気質でもなんでもないわけだ。

 

同じような理由で人種や国籍で差別をする人が周りにいなかったというだけで、偏見を持っていない事はたいした事ではない。

 

今振り返ると、祖父母は戦争に実際に参加したわけで戦中戦後の差別や偏見の嵐の中で、差別と闘ったり逆に人を差別せぬように、少なくとも自分の子や孫にそういう姿を見せぬように配慮していたらしいという事を知り、それらを乗り越えて来た人と、最初から知らない自分とでは大きな隔たりがあると思ったわけである。

 

自分がはじめて差別を実感したのは留学中の事であり、「日本人は臭い」というような言葉を投げかけられた時である。その時には文化の違いとして、香りを理解したわけだけれども、同時に自分もこれで少しは祖父母に近づけたのだろうかと言うような思いもあった。

 

歴史を学ぶべきだが、それをするまでもなく、差別はあちこちに転がっていて、そうした感情の根底には生存のための欲であるとか、コンプレックスであるとか、残虐性だとかいろいろなものがあるのだろうけれど、それを知らないで「俺は差別感情はないのだ」と胸を張っている事と、それらを克服したうえで、「ないように努力する」事ではちょっと違う。それは差別が社会に悪影響を及ぼしている時にも、イノセントである限りはそれに気づくことも矯正することも出来ないからだ。

 

ではなぜ祖父母は自分が克服してきたそれを自分の子や孫に見せぬように努力をしたのだろうかと考える。一つは人間の醜い姿を見せたくないという思いであろうか。もう一つはどうせ社会に出れば転がっている事なのだからそれを自分で見つけて克服せよという事なのだろう。それは自分に対する信頼なのであろうと思った。