文京うまれ

自由と知性

安全圏から心配するのは、それは美しくない

「友人がアルツハイマー病になってショック」と言う人がいた。
「ショックはわかったけれど、何がどうショックなのだ」
「私だっていつああなるかわからない」
「哀れだと思っているのか、自分はなりたくないと思っているのか、思われた人はどう思うだろうか。ただ抱きしめたい、寄り添いたい、そうあなたは思わないのか」
「かわいそうですよね」
「いっぱい自分の周りの人が不幸のどん底に落ちていくけれど、自分はショックとは全然思わないし、自分がそうなったらどうしようとも思わない。不条理だ、という怒りの感情を持つときはある。でも寄り添いたい、見届けたい、とは思う。それが仕事でもあるけど、仕事以前に一緒にいたい、という意識が強くなる。むしろあなたみたいな自分は今は関係ない、みたいな捉え方されると、それこそ嫌だな」
「じゃあどうしてるんですか」
「求められたら寄り添う、求められなくても不快でさえなければ隣で寄り添う、もはや相手は自分を認識してくれないかもしれないけれど寄り添う」
「寄り添う」
「そう、他人ごとみたいにしてるのが自分は嫌なの。一緒に寄り添ってあげたら、それはその人の人生に参加したことになるからいいの」
「わかります」
「わかってね、あなたが何かを心配してる時って、自分と関係ない安全圏から心配してることが多いのが気になってる。それって心配された方が得しないのであんまり好きじゃないんだな」