文京うまれ

自由と知性

敬意と本性

患者に対して敬意を払う、というのが外来の約束事で、自分はそれが良く出来ていると思う。実際本当に敬意を払っていないと必ずボロが出るものである。演技では出来ない。

 
しかし徹底的に敬意を払われてしまうことは少し患者にとっては怖いことかもしれない。なぜなら、彼らの本性がむき出しになってしまうからだ。
 
毎日一人はいるのだが、わがままになってみたり、要求がだんだん過大になってくる。その時には「あなたの要求はあなた自身を危険に晒すのですが、それを自覚していらっしゃいますか?考え直す事を勧めます」と言うんだけど、この言い方では理解できないかもしれぬ、回りくどすぎて。結局のところ、敬意丸出しの自分に言いくるめられて笑顔で去っていくのだが。
 
何万回も外来でのやり取りを繰り返して来たが、医者に敬意を払っている患者というのは実に少ない事を実感する。自分は他の医師とは少し違って、名前を調べれば自分がどういう人間なのかの情報が出るようになっているし、外来にも掲示してあるし、相手が自分を理解する材料は十分用意してあるのだ。それにも関わらず、医者を個の人間として考える事のできる人間は少ない。もちろん急病であれば別だが、急病ではないのに相手が誰かを知らずに診察室に入ってくる。
 
患者に敬意を払うことは相手の本性をむき出しにする、と書いた。
逆も然り。患者が医者に敬意を払った時に、医者はその本性をむき出しにするのだ。
真摯に質問をぶつけたときに、医者がどのように振る舞うかでその医者の知性や性格はモロバレになる。面白くはないか。
 
さあ患者よ、自分に敬意を払ってくれよ、そうされると自分の本性が出るはずである。
自分だって自分の本性を知りたい。
そう思って外来をしているのだけれど、ほとんどそういう体験がないのが寂しい。