文京うまれ

自由と知性

死を意識させられる

自分の先輩同士の対談が載っていて、
それは養老先生と隈さんなんだけど、
隈さんが学生時代に徹底的に「死」を先生に意識させられた、
「高校生のお前たちも死ぬんだ」と、
恐ろしかった、しかしすごく大切なことだった、と書いてあって、ああなるほどな、と思った。

養老先生はそんなこと突き抜けてる人なので、
「まあ自分も死にますよ、さよなら」って簡単に言い切るからつまらない。

隈さんはその後世界的な建築家になったけれど、
確かに「死」が見え隠れする世界観をもっているように見える。
というか、そもそもヨーロッパの現在の都市像というのは、
最初は壊滅的な天災があり、それがもたらした都市設計だ、というような講演をされており、
それと日本の震災、そして自分の建築とを重ね合わせておられた。

自分は家が病院で、しょっちゅう人が死ぬ話を聞いていて、
死とは避けがたいものだ、という意識を常に持ちつつ大きくなってきた。
養老先生ほどじゃあないけど、自分の死に対してはドライな人間で、
「死の前の生」に何かしら意味を与えられるような医療には肯定的だけど、
それのない延命には研修医のころから全然かかわっていない、
という点ではちょっと珍しめの医者なのかもしれない。

死を常に意識していない患者とは全然話が通じなくて、困る。
人間ってのは呆けてくると、本来の死生観が出てくるわけだけれど、
若いころ立派に「自分はいつも死を意識してます」と言ってた人が、
豹変してしまうという事をたくさん見てきた。

自分が呆けたくないな、と思う理由は、呆けると死生観が変わるところで、
変わんなきゃ、自分、えらい、とほめてやりたいけど、
その自信もないから、呆けたら教えてくれるアプリを作っておきたいな、と思ってる。