文京うまれ

自由と知性

訴える

「足がだるくて浮腫む」という老女の顔は、日に焼けて、マスクで隠してはいたが、明らかにひどい貧血だった。


「今日はどうしたのでしょうか」と聞くのも白々しいのであるが、いきなり診断をつけるのは礼儀に欠けると思うのだ。


彼女は今までいかに元気であったか、を語り始めた。たぶん5分10分語ったのではなかろうか。ご主人とのこと、子供のこと、仕事のこと、、、そして検診を受ける間もなく人生を生きてきたこと。
何も懺悔する必要はないのだけれども、神様に謝ってるのだろうか、などと思ってしまう。


「あなたのように元気な方が浮腫むとは、初めてでびっくりしたことでしょうね」と言うとさらにどうやってこの1ヶ月を過ごしてきたかを語り始めた。それらは診断とは関係のない事かもしれないけれど、儀式としていつも大切にしている。


診察をしてみて、なんとなく貧血の理由はわかり、それは自分の専門分野ではなくて別の病気だなあとわかったし、それが予期・予防できる病気ではなくてどうにも予測のつかない病気だった事は、自分を少し慰めた。患者さんよ、あなたには何も落ち度はないのだ。


さて土日休みが入るから、来週行くか、あるいはすぐに病院に行くか。


「土曜の午後行っちゃだめなのか」と患者が言ったところで、まだ深刻度が伝わっていないことがわかった。それも悪いことではない。「忙しいから」という言葉はしかし、自分の頭の50cmぐらい上を通っていったような気分がした。


「親切にしてくれてありがとう」と老女は言った。診断をつけないままに病院に送り出すことは、彼女が帰ってきたくなった時の保険だ。患者さんvs病院の医者、という対立関係が生まれたりした時に、自分がどちらに入るかというのは結構大きな問題であって、その時に「通りすがりの、あんまりわかってない、親切な」医者を演じておけば、患者さん側に入れてくれるんじゃねーの、という計算がある。自分は計算高い医者だ。