文京うまれ

自由と知性

作文が苦手

小学校のころに作文コンクールで目立っていたので、
両親は自分の事を文章が得意だと思っていたようだが、
実は作文が下手だ。

その原因は割合最近わかった。

自分は情報を圧縮する事が好きであり、
あとで復号化することを前提に文章を書く癖があった。
小学校の頃は語彙が少ないので、
知らない大人が読んでも適当に復号化出来てしまうので意味が通る。
そのためこの子は文章が上手いと評価されていたわけだけれど、
中学校になると語彙が増えてくるために
「こいつは何を書いているんだ?」
という事になるのだろう。

自分で書いた文章を読みなおすという事はあまりなかったが、その機会が訪れたのはブログのおかげだ。
10年ぐらい前からブログで色々書くようになったけれど、自分の医院のブログはアクセス数が多く、グーグル検索から結構な読者が訪れる。
人気の記事以外にも突然アクセスが増える記事もあるので、そうすると必然的に読みなおすことになるのだ。

情報量に対して文章が短すぎる。
自分の文章は行間に書いていない事が多すぎる。
自分で読んでやっとわかる文章なのだから人にはわかるはずがあるまいというのが正直な感想で、読者があきらめてしまわぬように、幸い著者は自分なので足りない部分を書き足してわかりやすくする作業が日課になっている。

じゃあ書き直したらそれは良い文章なのかと言えばそうではない。冗長だ。
なかなか自分で良く書けたなあと思うのは少ないものだ。

ところで自分は父親が書いた文章が割合好きだ。
例えば彼はこういう文章を書く。

ご自宅に帰ってから調子が悪い時には医院に電話をしてくださって構いません。
しかし夜は私は寝ていますから、必要な電話かどうかは良くお考え下さい。
その場合には後ほど再診料と言って、お金がかかる事がございます。
電話をしても構わないがお金をいただく事があることと、電話をするかどうかの判断は皆さんに委ねることをお伝えするのがこの文章の趣旨でございます。

彼自身は自分のようにペラペラおしゃべりするタイプではないし、日本医学界の重鎮であって患者さんから見れば畏れ多いタイプの医者である。
いかにも難しいことを書きそうだが、それが文章を書くと案外丁寧で、同じことを2度必ず繰り返す。
彼の書く英語の文章も平易なわりに格調がある。
文章は人をあらわすと言うけれども、本当だからどうしようもないなというのが今のところの感想です。まあそれでもブログを書く事はトレーニングになっているとは思う。