文京うまれ

自由と知性

文化祭に行った

文化祭で手話クラブの発表(歌にあわせて手話をつける)があって、
アンケートにもっと書きたかったんだけど、
とりあえず書いた感想が、

一つ目の曲の選曲が何が良かったかというと、言葉の繰り返しが多かったことで、
すると手話のことを全く知らない自分であっても短い時間の中で単語を理解できたり、
左右対称の動きは特に意味は変わらないのだなと理解が出来たりするので良かった。
それに「一瞬」とか「時間」を同じような手話で表現していることが理解できた。
手話の言語世界は少し特殊だとされているけれど、手話を理解しようとするときに、
あえて日本語から助詞や時制を抜いて意味を再構成したらどうなるかということを
シミュレーションするわけだけれど、それを短時間で理解させてくれて良かったです。
中国語は単語の羅列のような言語であって、それは手話にしやすいのかもしれない、
などと思う。

一方の星野源さんの曲だけれど、これは手話表現が難しくはなかったろうか。
リズムや語感がとても良い曲は、手話のリズムもとても良いけれど、
SUNという曲の、
「何か楽しいことが起きそうな幻想が弾ける」の弾ける、がいったいどういう意味か。
それをどう表現するのか。ダンス、がその答えなのであればそれは素晴らしい事だ。

季節の描写、自然の描写、音や風景を、手話ではどう表現するのか。
そういうことにチャレンジできそうな、そういう選曲で次回は聞いてみたいと思います。

みたいなことを書いた。

言語に関して非常に鋭い感覚を持っている人を知っていて、あとからその人が素晴らしい手話使いだったのだと知り、なるほどと納得して今に至る。自分は言語の意味の齟齬を嫌うので、いい加減な言語を操る人間はそれが友人や患者さんであっても割合壁を作ってしまうけれども、安心して言葉をやり取りできた人である。

漫画で話題になった「聾の形」がアニメーション映画になって、ヒットするのではないかと言われている。遡ること4ヶ月。5月に「LISTEN」という映画が公開されている。
どちらも「聾」を扱ったものだ。僕にはuCCIさんという友人がいる。彼は素晴らしいダンサーであり、クリエイターであり、今はキャスティングやプロデュースの仕事をしている人だ。彼も聾なんだけれど、彼とのコミュニケーションは、彼が僕の唇を読んでくれるというもので、その関係は、彼の鋭い言語感覚が基礎にあるからこそ成立するものだ。尊敬している。

一方、手話ではコミュニケーションが取れない場合もある。目も見えにくい場合だ。盲聾(もうろう)と言う。自分が盲聾を意識したのはあやえちゃん(http://blogs.yahoo.co.jp/osanpogakosan)のおかげだ。彼女は後天的な盲聾で、手話ではなくて手のひらに文字を書いたり、指点字を使ってコミュニケーションを取るし、たぶんiPhoneだと思うけれど、blogでのコミュニケーション、その情報のアウトプットは驚嘆すべきものである。天才というのはいるものだ。彼女が目が見えにくくなって、鍼灸師の勉強をしだしたときに、僕は「彼女はどのくらいでものになるのだろうか」と興味があった。しかし一生患者の脈がわからない、という医師が多い中で、彼女は患者の脈がどういうものかしっかり理解しているようだし、その鍼がきちんと目標に到達したかどうかもわかるようである。またクリック音を出して周囲の状況を知ったりするという感覚の持ち主でもある。

先日医院にかわいい封筒が届いていて宛名が私なので、なんだろうと思って開けてみたらあやえちゃんの本だった。ありがとう。彼女は民謡を歌うのがかつては上手で、スピーチコンテストでは何度も賞を取っている人で、言語を取り扱う能力がやはりとびきり高い。そして病気のために今は大変な困難の中にいる。彼女がどう生きる道筋を見つけていくのか。彼女のアウトプットの量は多いので、彼女だけでなく周囲の人々がどう反応しているのかが良くわかり、自分だったらどうしたか、を深くいつも考えさせてくれます。

先天的な聾の人同士のコミュニケーションは、文法から何から違う、と聞いたことがあります。僕らとコミュニケーションするときと、仲間内でコミュニケーションするときとは違うのだと。多くの研究者は、彼らの文法は時制などを失った、もっと原始的なものではないかと考えているようだけれど、本当は違うのではないか。例えばキーワードを交換しつつ感情を共有する事で、会話とは違う次元のコミュニケーションをしているのではないかとか、そういうことを考えたりするのが自分は好きです。