文京うまれ

自由と知性

子どもが自殺してしまうという事

何人か、お子さんが自殺してしまった、という友人(含患者さん)がいる。

 

自殺自体は「隙をついて」行われるので、予防のしようがないというか。

さかのぼってどこの時点で食い止められたかねえ、という話をするんだけれど、結論が出ない。

 

ただ、その中に、

「あまりにも物分かりの良い親でありすぎたかもしれない」とか、

「あまり子どもとぶつかったことがないので、逆に良く子どもがわからなかったかもしれない」といった言葉が出てきていたのが印象には残る。

 

親子で対立しろ、とは言わない。けれども、ぶつかり合わないコミュニケーションは、スマートかもしれないけれども、わだかまりを残したりするのだろうか。

 

と、自分を振り返ってみると、あまりにも人とぶつからないので愕然とする。どんな人と話しても、「ああ、なんとなくあなたの立場での見方はこうなんだな、というのはわかります。妥協点を探りましょう」という感じになってしまうのだ。

 

それは相手に孤独感を逆に与えてしまうことになるのだろうか。怒りのエネルギーというのは時々生きるエネルギーに変化するわけだけれど、これを奪ってしまうのか。あるいは「気を遣わせすぎている」というように思わせるのだろうか。その可能性はあるかもしれない。

 

感情のままに生きている人を羨ましく思うことが多いけれど、それは自分のコミュニケーションの仕方が、「上辺だけ」「気を遣っている」と思われてしまうのではないか、という不安の裏返しなのかもしれない。

 

良く子育て論で出てくる、「理想的な母親像」は自分の素に近い。女じゃないけど。それだけに、そんな子育て論通りの母親がいたとして、もしも子どもが絶望を感じたりしたときには何の助けにもならないのではないのか?と思ったりするわけだ。

 

逆に不完全でキーキー言ってるほうが、そういう意味では安心かもしれないな、などと思いつつ、人のことを眺めていたりする。