文京うまれ

自由と知性

自分を警戒させる患者

私はコミュニケーション能力の塊のような人間なのだけれど、
それが仇になることがある。

要するに「考えてない人」が相手の時だ。なぜなら心が読めないから。

普通下痢が主訴だったら大腸の検査をするのが当り前じゃないですか?

95%の患者さんは少しは考えてくれるでしょう。話をしているうちに患者がどのような検査の進め方を希望するのかが見えてきます。

ところが3回の外来で、大腸検査をお勧めしたい、という言葉を3回ともその人は無視した。

これはもうよほど偏屈で性格が悪いか、大腸検査を絶対にしたくないか、

どちらかだろうと思って、お堀を埋めるようにして別の検査をして緻密に精査を進めていきました。つまり大腸検査の前に内分泌腫瘍だとか血栓症だとか、もっと珍しい病気を除外しなければならなかった。これは内科の検査の進め方としてはとても嫌です。コモンな病気から除外すべきなのに、そうしないというのは。でも患者の希望を尊重すればそうせざるを得ない。苦しくもあります。

とても馬鹿らしい仕事です。そして今日は覚悟を決めて、

「ここまで慎重に進めてきましたが大腸検査を受けないのであれば、次の一手はありません。するのかしないのか決めて欲しい。しないのなら内科にかかる意味はそもそもないので終診にさせてほしい」と申し上げた所、なんと、

「大腸検査の事は聞いていないが、それは私が覚えていないだけかもしれない」と相手は言ったわけですね。

そこでわかった。まれにですが、話をまるで聞いていない人がいる。そういう人だったわけです。そして「覚えていないだけかもしれない」という言い方から判断するに、そういうトラブルも経験済みなのでしょう。ああ、最初からそれを見抜けなかったとは私もまだ未熟ではないか?

相手が話を少しは聞いている事が読心能力の前提なので、全く人の話を聞いていない人には私の読心能力はまるで通用せずに、右往左往するのが常なのです。