文京うまれ

自由と知性

小田原について

小田原厚木道路荻窪インターチェンジが出来たのは昭和54年の事です。

 
小田原には旧華族の別荘は結構あり、それらが戦後に分割、分譲されて高級住宅になったりマンションになったりしていました。分割されても300坪以上ある家ばかりで恐ろしく大きい。絶対儲かってないはずなのに潰れないフレンチレストランとか。(今はさすがに潰れてますが)でもその隣が養鶏場だったりしてカオス。
 
板橋あたりに多いそこに行くのはちょっと面倒だったんですけれど、荻窪インターチェンジが出来てからはずいぶん交通の便が良くなりましたし、小田原駅にも行きやすくなりました。

村上春樹読んだことなかったんですが、日本が誇る大作家なので読め読めと友人が言う。
描写が露骨、という先入観があり避けてましたが。
そうしたらある一人が「騎士団長殺しなら小田原が舞台なので先生読め」と言うから、「ああそうか」と読みました。

そうしたらいきなり小田原厚木道路登場ですよ。良く知る風景が出て来てすんなり読めます。中学生が住んでいるのは益田団地のある斜面、て事で辻褄あう気はする。
祖父母の家があったのが益田孝の掃雲台の跡地で、その隣が山縣有朋古稀庵、大倉喜八郎の山月。ちょっと有刺鉄線くぐれば、あるいは塀を乗り越えれば、抜け道には事欠かない。あの辺り歩いていると「ここ通れるんじゃないか」って場所が結構あった。北原白秋の「みみずくの家」も近くにあるが、これもモチーフとして登場する。画家の井上三綱さんのアトリエが入生田の長興山にあって同じ斜面にある。こっちが主人公の家。谷をはさんだお向かい、という設定で謎の免色さんの屋敷があるが、これは早川の山っぽい。早川漁港にはNARISAWAの成澤由浩さんがオーナーをしていたレストランが昔あったけども、これっぽいものも登場する。
 
霊的な話だけど、そもそも小田原はやたら霊媒師が多くて、自分が子供のころは「霊媒師兼医者」みたいなのまでいた。タンノイのオートグラフが出てくるけど、これ伯父の家にあったやつ。マッキントッシュもあったかも。
 
他の作品を読むほど好きなわけではありませんが、なるほど、いろいろな史実や世界的な問題とも絡めて書いておられるので、背景を想像したい人を喜ばせるテクニックが満載だ。プロの作家だなあ、超一流だ!と素直に思いました。

性悪説

命が助かったときに、感謝するどころかこれに似たことを言う人々がいて、そういう人たちは一種の弱者だと考えている。
(お金を払わない、とごねる人々も病院には沢山いるそうだ)

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きっと今まで「親切」「善意」に出会わずに生きてきてしまったんだなあと。

だからといって彼らはそれを変えられる年齢ではないし、自分も疲弊したくないので事務的に対応。

人生とバトン

外来が人生相談みたいになっているが、それも年をとったせいか。

 

子供を授かるという事は次世代にバトンを渡す、という意味と自分は考えているけれど、それは他人を教育したりすることも違いはないので、子供がいる事にこだわる必要はないのではないか、と言うとほっとしたような顔をする人が多い。

 

(結婚してみたものの、妊娠についての考えが夫婦で異なる場合は多い)

 

どうしても「自分の子供を」という人はいて、それが生物としての本能に近いのかもしれないが、彼らの心の中も複雑なようで、どうして自分の遺伝子にこだわるか、という事は言語化出来ない人が多いように思う。本能なら本能で良いのであるけれど。

 

自分は今はAIにバトンを渡すべく動いている。それはそれで意味のある事だと思うので。

 

 

こんな感じか

toyokeizai.net



結論に違和感があったので書いておく。

Aクリニックでは診断のためにレントゲンは必要。手術前に呼気と吸気で2枚撮ったりブラをCTで評価するからC病院でのレントゲンは必要。効率の点で問題があったとすればB病院。


しかし、効率を優先するか、命を優先するか、を比較してみるとまた景色が違ってくる。

気胸は進行が早かったり緊張性気胸になったりして悪化することがあり、とりあえずトロッカーだけでも入れられるようになるべく早く近隣の高次医療機関に診てもらいたいと判断する場合はある。その場合にはB病院でのレントゲンも無駄ではない。

 

診察の効率化、という事を結論として持ってくるならばベッドコントロールが出来ていない大病院に緊急手術の可能性がある患者を送らざるを得なかった事が問題でレントゲンのデータの共有云々という話ではない。

レントゲンなどの情報共有など簡単だが、それをやったから効率化されるわけではない。医療リソースをどう振り分けるか、が重要かつ、高度な最適化が要求される問題で難しいのだ。  

 

 

勘について

私が経過を診ている患者の場合には膵臓がんについて勝手に心配するのは徒労であろうと思う。今までは上手くやってきた。逆に自分が検査をしようとしたところをいろいろな誘因で邪魔されて手遅れになった経験ならいくらでもある。年一回の定期的なエコーwwwなどで見つかる膵臓がんはない。前回のエコーが1ヶ月前であろうと、見ようと思ったときに見ることが重要だ。

膵臓がんをたまたま治る段階で見つけるには運が必要であるが、それは空腹時血糖が上がったなど、ささいな変化から超音波検査をしてみようか、と自分が思うことからはじまる。自分はそういう点では比較的強運に守られている。

膵臓というのは見るのが難しい臓器であるがゆえに、腕やモチベーションが大きく影響してしまう。したがって、「ここはきちんと見ておくべきかな?」と自ら思うことが重要で、患者から言われた、とか、CA19-9が上がってる、などの場合には「別の病院にかかってくれないかなあ、こちらには見逃したときの訴訟のデメリットしかないんだから」としか思えない。幸い訴えられたこともないし、膵臓がんがそんな理由から見つかったこともない。ひたすら自分の勘だけを信じてやっている。

乳がんについては患者の勘(不安)が結構当たるのとは対照的である。
胃癌は患者の勘(不安)が全く当たらない臓器であり、「絶好調」などとうそぶいてるおっさんを検査しておけば、いくらでも見つかる。

利き耳

利き腕、利き足があるのと同様にたぶん利き耳もあるんだろう。
僕の声は聞き取りづらいので、良く患者さんが「あんだって??」(志村けん風に)と耳を僕に向けるんだけれど、
例えば右耳を僕に向けるって事は右耳のほうが良く聞こえるんだろうな、と思い、
「右耳のほうがよく聞こえるのですか?」と問うと、
「いや、右耳が悪いんです」
「では左耳はよく聞こえるの?」
「ううん、左耳は使ってない」
と返ってきて、なんか納得した。

デパートの地下

最近は伊勢丹に行っても三越に行っても全国のお菓子が置いてある。
大工さんにお出しするお菓子を購入しようと思い、のぞいてみるとほとんど食べたことがないものばかりで目移りしてしまった。自分が食べるわけではないのに。

この季節は暑いので、冷たい萩の月は美味しいだろうと購入。
あとは梅のゼリー。
焼き芋みたいなんだけど白いんげんで出来ている東京のお菓子も買った。
大工さんがアレルギーがあるかどうか聞き忘れたため、原材料別にいろいろ買った。

豆かん食べたかったのに、昼の時点で売り切れ、残念。