文京うまれ

自由と知性

リベラル・アーツと試験

教養なるものがあれば、まともな大学ならば俺を合格させるだろうと、受験勉強はしないでひたすら教養を身に着けようと勉強していた自分はあほみたいなんだけど、今はその知識に助けられているからやはり問題ない。

 

しかしながら自分を合格させた大学はすごいよな、と思う。決して良い出来ではなかったと思うんだが。

 

人を死なせないことに注力して勉強した自分を落とすならば日本の医療はだめだろう、と細かい知識の記憶はやめて基礎的な勉強に集中した医師国家試験だけれど、これもやはり俺を合格させたんだからたいした試験だなとか思った。(でもさすがにプレッシャーに負けて、絶対に点数が取れる公衆衛生の勉強はした)そんでその時の知識は今でも色あせてなくてどんな病気の人がいても一通り理解ができている。

 

同じ60点を目標とするのでも、勉強の仕方の問題がある。

60点を目標として勉強をするのではなくて、必要な教養を身につけたうえで結果として60点ぐらいの点数が取れるのならばそれは指導者の試験の作り方が素晴らしい、という事だと理解している。同じ労力を試験で100点取るために使うのか、あるいは自分の知性を磨くのに使うのか、という違いはある。

 

ただし、クッションは作るべき(試験で落ちるのは癪だから)なのであり、最高で90点、最低で60点ぐらいの点数のばらつきになるよう、出題者の傾向を分析したりはした。これは学内での試験での話だ。

 

出題者の傾向がはっきりとはわからない受験の問題や国家試験の問題で、自分が考えた「必要な知識」があちらの合格点に達した、というのは一つの自信にはなっている。